坂の街小樽
最近、会社の先輩が長崎の佐世保出身であることを知った。
「先輩、佐世保出身だったんですね。」
「そうだよ。」
「たまに港から汽笛が聞こえたりしますよね。」
「そうだね。」
「 坂、多そうですね。」
「うん。平野は、落ち着かないよ。」
あ、先輩も同じなんだ。と思った。
坂が多い小樽で育った私にとって、坂があまりにも身近だったせいか、札幌のような平たい街は落ち着かない。
小学校の通学路だったアスパラ畑の横の坂、市民会館から小さなアイスクリーム屋さんを通って国道に下る坂、秋になると銀杏がたくさん落ちていた母校の通学路の坂、港が見える高台にある神社から下る急な坂、etc…
小樽で暮らしていたとき、もう嫌と思うくらい、坂はいつもそばにあった。
「離れてみて気付いたのですが、やっぱり、坂の多い街がいいですよね。」
「そうなんだよね。いろんな街の風景を見られるし。」
ふと、いつかの光景を思い出した。そうそう、季節が一進一退しつつも春の匂いがしつつあった3月のある日の、夜の帳が下りるちょっと前、坂を登っていて、ふと歩いてきた路を振り返った時のことだった。
そこには、紅色から群青色にグラデーションがかかった黄昏の小樽の街並みが広がっていた。すこし霞みがかった赤岩の山、麓の家々の光が瞬きする様子、暖かいオレンジ色の外灯、家路につく車たち、西の空に輝きはじめた一番星…。
私は、いつも歩いている路なのに、まるで、この風景に初めて出会ったかのように思えた。
小樽に住んでいると、いろんな季節のいろんな場面で、思いもよらない光景に出くわすことがある。何気なく暮らしていた場所でも、あ、ここからはこんな風景が見られたんだ!と驚くのだ。それは誰もが知っている有名な景色でもなく、自分だけのものとすら思う。港と坂がある街というのは、住んでいると実感として湧かないが、実は特別なのだ。
「坂があると、街を再発見できると思います。」
「そうだね。」
坂を登って、振り返って、思いもよらない光景に出会い、感動する。日々のくらしで、ちょっとした感動を抱えて家に帰れるというのは、とても幸せなことだ。
坂を登れば、小樽をもっと好きになる。
私はやっぱり、坂の街小樽が好きだ。
投稿日: 2020年2月15日
オタモイの記憶
東京に出てきて3年が経った。もうこのまま故郷のことは忘れてしまうのかなと思っていたが、小学校の後輩が上京して来て、有楽町で飲む機会があった。そこで地元の話になり、故郷で過ごした愛しい日々の思い出が蘇った。
小樽の西側にある「オタモイ」という町で育った。漢字では「於多萠」と書くそうだが、ニセコやキロロと同様、カタカナ表記のままだった。
小樽駅から30分くらいバスに揺られるとオタモイに着いた。周りを小高い山に囲まれているが、その山を超えると急な崖があり、すぐ下は海だった。なので、町に遠い海鳴りが聞こえてくることもあった。坂が多いのは小樽の特権で、夏は坂を登って山に虫捕りに行ったり、海にツブを採りに行ったりもした。
冬は裏山でスキーをしたり、坂道でソリ遊びもした。坂が多いから自転車に乗らないなんてことは無く、小学生時代はママチャリではなくマウンテンバイクに乗って遊んでいた。小樽の子どもたちは、みんなこんな時期を経験して育つのかな。
そんなオタモイだが、今でも強烈に思い出す情景がある。銭湯の記憶である。
小樽は銭湯が多いことで有名だが、オタモイにも昔、満寿美湯という銭湯があった。男湯ではおじいちゃんが多く来ていて、よく身体を洗わないで入ると怒られた。お湯はすこぶる熱かったが、冷水を入れるとまた怒られた。そんなこんなで最初はよく怒られていたが、それもいいコミュニケーション。多くの大人と顔見知りになり、番台のおばちゃん、お姉さんとも仲良くなった。アイスやコーヒー牛乳をおごって貰ったりもした。店を出る時は、「どうも」と言って店を出るのが決まりだったが、小さいころは恥ずかしくて言えなかったっけ。
熱いお湯ですっきりして、あっちこっちから夕飯支度のいい匂いがする群青色に染まったオタモイの町を帰った情景は、今も心の中にしっかりと残っている。「今日の夕飯なにさ?」なんて、近くのおじちゃんがよく話しかけてくれた。せかせかしない、ゆっくりとした時間が流れていた。
東京で満員電車に揺られているとき、ふと「あのころのオタモイの人たちは今も元気かな?」なんて思うことがある。あれだけあたたかい町の思い出が心の片隅に残っているのは、とても幸せなのかもしれない。遠く離れた地にいても、故郷では故郷の時間が流れていることをたまに想うのは、大切なことだと思う。
(yw)
※「満寿美湯」に関しては、下記のURLにて記述があります。
小樽ジャーナル(2010/12/10記事)http://otaru-journal.com/2010/12/1206-3.php
投稿日: 2016年6月26日